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佐渡トキ検定ブログ

佐渡金山と大久保長安

投稿日時:2012/06/19(火) 03:03

佐渡では、西三河の砂金が古くから知られていましたが、観光地になっている佐渡金山が発見されたのは1601年です。

慶長6年(1601)
鶴子銀山の山師3人が佐渡金山を発見し、六拾枚、道遊、割間歩を開く。
徳川家康、伏見城にて大久保長安に佐渡金山の支配を命ずる。

この大久保長安は、八王子に関係が深い人です。
 
長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。
7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である。山がちであり、各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえであろう。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89

トキと共生する島づくりを、八王子の大学生が応援するのも、必然性があったのかもしれません。

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